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盛岡藩内御留め武術

古武道
 諸賞流「和(やわら)」について


〜歴史と流名の由来〜

  諸賞流とは


     諸賞流「和」は、江戸時代正徳元年に盛岡に伝わり、盛岡藩において藩外不出の
   「御留め武術」として伝えられた武術で、柔術の「柔」ではなく「和」の字を用いて
   「やわら」と読む。


   
「御留め武術」とは、藩主の命により他国に伝えることを固く禁じられた隠し武芸の
    ことで、他藩の者に見せたり修行中の者が無断で藩外に出ることなどご法度とされた。
    もし禁を破り他国を旅する者や脱藩する者があれば「藩を出る前に討ち取るべし」
    と厳しい沙汰が出されたという。



 歴史と流名の由来



 
                                    新渡戸稲造の祖父忠之丞の免状


 
    
藤原鎌足を開祖とし「狐伝流」と称した。鎌足の没後、狐伝流が失伝した150年ほど後、
   坂上田村麻呂が清水観世音にて37日参籠した際、「藤原鎌足公の工夫せられし和を夢想
   の中に」受け継ぎ復興させ、流名を「夢想観世流」と改め初代となった。

   
   源頼朝が鎌倉に幕府を開いた建久3年7月、朝廷の使者をもてなすため相撲大会を開いた。
   諸侯たちも競って自慢の郎党を出場させたが、その中で他を寄せつけず勝ち進んだのは、
   体格力量ともに群を抜くひとりの法師力士だった。
 
   ところが、この圧倒的な強さを見せつける法師力士を、組み合うやいなや縦横無尽に投げ
   飛ばしたのが、当時観世流27代師範であった毛利宇平太国友という小柄な男だった。
   口惜しがる法師力士は、幾度も戦いを挑んだがかなわず、ついに力尽き完敗を認めた。

   これを観戦していた頼朝や諸侯たちは、「和」の技の素晴らしさにおおいいに感嘆し、
   頼朝から「以後、諸賞流と名乗るべし」と申し渡され、国友が諸賞流初代となったと
   伝えられている。

   その後、江戸正徳元年、46代石田定政の下で修行を積み奥義をきわめた岡部武兵衛庸重が
   47代となり、時の盛岡藩主南部利幹に召し抱えられたことにより盛岡に伝わった。                                                                                 

   現在は、宗家68代師範高橋厚吉氏の指導により、門弟と共に新明館橋市道場を稽古場として
   伝承されている。

    
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